荘雅橋街時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 08:42 UTC 版)
1901年(明治34年)、日本が台湾の統治を開始してから6年目に、台南県は「北白川宮下湯遺跡」(後の台南神社 )の隣に台南県博物館の開設を計画し始めた。同年の8月31日、郡令第28号により「台南県博物館規則」と「台南県博物館職員規則」が公布され、博物館を太子街に置き、館長1名、評議員5人、主事3人、書記1人、監守2人、門衛1人、用務員1人をもって設立されることが定められた。 1902年6月26日、博物館が正式に開館し、一般公開された。同時に、第5号で郡令が「台南博物館規則」に改訂され、博物館を荘雅橋街に置いて名称を台南博物館に変更し、館長1名、主事3名(常勤1名)、書記と看守数人が充てられることが定められた。開館時間は午前8時で、閉館時間は午後5時であった。(なお、11月から3月まで、開閉は1時間遅まる。)
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