荒谷家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 03:42 UTC 版)
荒谷家初代、荒谷八郎右衛門は九戸政実の乱から逃れ金山沢の鍵掛沢に来たとされ、1675年に金山集落に転居した。荒谷家の口伝によれば、荒谷家先祖の3人兄弟が再会を約束してその一人が一族を従え南部領を捨てて鹿角郡曙村より真金山峠を超えて金山に入ったという。1761年に9代目の忠右衛門富暠の時に、帯刀御免と金山の経営を任されたとされる。金13kg125g、銅18tを差し出すことを命じこれまでの給金を10両から13両に増やしたものである。1764年(明和元年)に、忠右衛門は金方世話役、横目役を命じられている。1772年江戸時代の鉱山技師でもあった平賀源内と吉田利兵衛が荒谷忠右衛門の案内で大葛鉱山を廻山した。1779年(安永8年)金山は荒谷の受山となり、最初の3年は請負山として損益を一任され、1728年(天明2年)から直山格の受山として運上金10両を藩に上納するように命じられている。以後その役は世襲的なものになる。1803年江戸時代の紀行家である菅江真澄は5月4日に、大葛金山を支配する荒谷富訓のもとに宿を借りた。翌5日、真澄は荒谷の案内で鉱山を見学した。1844年荒谷家11代当主の荒谷忠一郎富謙は鉱山経営者でもあったが、優れた数学者でもあった。今の一関地方の和算家千葉胤道に師事し、24歳の時に一関市川崎町薄衣の波分神社に他の3人と共に算額を奉納している。1873年には桂太郎と伊藤博文も荒谷家に滞在し、鉱山を見学した。荒谷家による大葛鉱山の経営は、1869年の15代桂吉まで続いた。この年、荒谷桂吉は「支配人御免」を藩に提出し、翌年それが認められた。荒谷桂吉は後に県会議員や同議長、衆議院議員(3期)を務めた。
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