英語習得からDJデビューまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 16:03 UTC 版)
「小林克也」の記事における「英語習得からDJデビューまで」の解説
母親は教師で母子家庭だった。小学校3年生の頃、ラジオで岩国基地からの極東放送(FEN)を聴いたことから耳で聴いた英語に興味を持ち始め、小学校6年の終わりごろから親戚の知り合いから英語を習い始め、英語の発音を徹底的に教えられる。 中学時代はボイス・オブ・アメリカやオーストラリア放送などの短波放送を熱心に聴取。1955年、ロックンロール元年を告げるビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツ「ロック・アラウンド・ザ・クロック」も短波で聴いた。エルヴィス・プレスリーをはじめとするロックに夢中になる。 広島大学附属福山高等学校にトップ合格した後も英語に熱中し、将来は英語を活かす仕事をすると決めていたため、幾何学など英語以外の科目はどうでもよくなったという。 このため、大学受験では現役時に東京大学と東京外国語大学を記念受験で受けたが英語以外の成績に問題があったことから合格せず、浪人で英語の配点が高い慶應義塾大学経済学部に入学。慶應義塾大学在学中に試験に合格し通訳案内士の活動を始めるもこちらに精を出し過ぎ、好きな英語でも経済学の英語原書には全く興味を持てず、大学を中退。外国人相手のナイトクラブなどの司会を本業とした。 1970年、『バブリング・ポップス』(ラジオ関東 = 現・アール・エフ・ラジオ日本)のDJで電波デビュー。この番組はワーナー・パイオニアの新譜(主に洋楽)を紹介する番組でその英語力と声質を活かし、一気にラジオ界の寵児となる。
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