英国とオーストラリアの不一致
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 03:06 UTC 版)
「オーストラリアの司法制度」の記事における「英国とオーストラリアの不一致」の解説
オーストラリア連邦憲法は英国議会の法律である一方で、20世紀になるとオーストラリア政府における英国の役割は名目上のものになっていった。また、連邦政府は司法関連の文脈では通常 “the Federal Government” ではなく”the Commonwealth” と言及される。しかし、オーストラリア議会の独立の機運が高まることはなかった。自治領の同意を得ずに英国法が自治領に適応されることを明記した1931年ウェストミンスター憲章に向けての会議にオーストラリア各州の代表は参加しなかった。オーストラリア連邦はウェストミンスター憲章を1942年まで行使することはなかった。英国議会、連邦議会において可決された1986年オーストラリア法制定にあたり、ついに議会の完全なる独立を果たした。自治領の同意と要請により英国で法律が可決され、その法律が州議会や連邦議会に適応されることはなくなった。オーストラリアの全ての裁判所から枢密院への抗告も完全に廃止された。オーストラリア法は英国からの象徴的な独立を意味した。これは、法案に署名をするためにエリザベス二世が来豪したことによって強調された。20世紀最後の四半世紀の議会の独立と並列してオーストラリアと英国のコモンローの不一致が益々見られるようになった。加えて、1969年ニューサウスウェールズ州植民地法適応法など、オーストラリアに継受された多くの英国の法律が州議会で廃止された。 オーストラリアの共和主義運動は1990年代に起こった。この運動は、オーストラリアを立憲君主制から共和主義の政府にすることを願ったものであった。
※この「英国とオーストラリアの不一致」の解説は、「オーストラリアの司法制度」の解説の一部です。
「英国とオーストラリアの不一致」を含む「オーストラリアの司法制度」の記事については、「オーストラリアの司法制度」の概要を参照ください。
- 英国とオーストラリアの不一致のページへのリンク