脱清人の末路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 04:34 UTC 版)
以上のように欧米列強や周辺国に蚕食され続けていた清朝は、そもそも自国大陸が危機的状況に晒され続け国体も動揺を続ける最中、小冊封国琉球の利権を巡って、富国強兵政策により国力を増強させていた日本との紛争や戦争に対応する余力は実質的にもほとんどなく、日本との衝突を懸念するあまり、旧琉球士族に支援や援軍を送るどころか、先島諸島の分割をもって日本側と妥協する方向に動いた。 これをみて脱清人らの抗議活動はエスカレート、1880年、林世功は日清の妥協の動きに抗議して自らの命を絶った。驚いた両国は先島諸島の分割を白紙に戻さざるを得なくなった。 その後も20年近くにわたり脱清人の活動があったが、列強や周辺国の蚕食や国体動揺が更に深刻化していった清国は、琉球復興に力を注ぐ余裕は理想的にも現実的にも全くなく、琉球情勢は埒外に置かれていたと言っても過言ではない。そのような中、日本は確実に沖縄県の支配強化を進めていき、その長い月日の間に、脱清人も多くの指導者が病死したり、没落したりし、その影響力を減じていった。 そして決定的な事態は、1894年に発生した日清戦争による清国の敗北と翌年の下関条約に伴う台湾の日本割譲により齎された。これによって、清国が琉球を救援する力が無いどころか、台湾すら守れなかったことが、清国からの救援を一縷の望みとし続けていた脱清人らにも明白な現実として突き付けられたのである。 日本の沖縄支配に水面下で抵抗を続けていた頑固党も、日本に屈服するか、指導者の向志礼(義村朝明)のように「日本の支配」を逃れるための脱清をするかの選択を迫られた。かくして、亡命した脱清人らは、義和団の乱、北京占領から辛亥革命までの清朝末期の動乱の中国大陸の大きな歴史的なうねりの中で、次第に忘れ去られていった。
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