肖像と文献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 03:46 UTC 版)
「チャールズ・バーニー」の記事における「肖像と文献」の解説
バーニーの肖像画は、1781年にジョシュア・レイノルズによって描かれヘンリー・スレイル(Henry Thrale)の所蔵品となった。胸像は1805年にジョゼフ・ノリケンズ(Joseph Nollekens)によって彫造された。バーニーは、1791年にロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツのために描かれたジェームズ・バリーの「The Thames」(「Triumph of Navigation」とも呼ばれる)にも登場している。バーニーは当時の著名な芸術家や文学者の間で幅広い知人を持っており、友人のサミュエル・ジョンソン博士の伝記を記述することを考えていたが、多くの伝記作家が博士の伝記を出版したためその構想を放棄した。 バーニーの長男のジェームズ・バーニー(James Burney)は、1821年に海軍少将となって死去したイギリス海軍の著名な将校であり、ジェームズ・クックの最後の2回の航海に同行し、退役後は作家として活動していた。バーニーの次男は、大英博物館への本の主要な寄贈者で、のちに牧師となるチャールズ・バーニー・ジュニア(Charles Burney)で、次女のフランシス・バーニー(Frances Burney)はファニーと呼ばれ、作家となって小説や戯曲の執筆で知られるようになり、後に1793年にフランスからの亡命者アレクサンドル・ダルブレ(Alexandre D'Arblay)と結婚し、マダム・ダルブレと呼ばれるようになった。彼女の出版された日記と手紙にはダルブレとの結婚のことや、1798年の妹のシャーロットと投資家で政治的な文筆家だったラルフ・ブルーム(Ralph Broome)との再婚に対して父チャールズが初めは反対していたことなど、バーニーの公的および私的な生活と、バーニー友人や同時代人の多くの詳細で興味深い詳細が含まれている。バーニーの伝記は1832年にフランシスによって公刊されたが、それは常に賛美的であると批判されてきた 。二度目の結婚による彼の娘、サラ・バーニー(Sarah Burney)も同様に小説家だった。彼女の手紙は、彼女の父親についての興味深く、あまり褒められない情報を提供する。サラは老後の世話をしたが、彼らの個人的な関係は貧弱なままだった 。
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