聖嶽洞窟遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 04:52 UTC 版)
洞穴発見の翌年、1962年に別府大学教授の賀川光夫を中心とした日本洞穴調査委員会・特別委員会により発掘調査が行われている。この第1次調査の結果、洞穴内部が上から黒色土層(第1層)、粘質砂礫土層(第2層)、粘土層(第3層)で構成されていることが判明し、第1層から中世の宋銭、土器が出土。そして第3層からは後期旧石器時代のものとみられる化石人骨、黒曜石製の旧石器(台形様石器、細石刃等)が同時に出土した。このことが当時、国内で唯一旧石器時代の石器類と人骨が共伴した例として、また九州地方では初めて旧石器時代の人骨を出土した遺跡として注目された。この人骨は、解剖学を専門とする新潟大学教授小片保によって中国の上洞人と似ているとされ、聖岳人と呼ばれ、高校の歴史教科書にも掲載された。 しかし、1999年に行われた第2次調査において、発掘された人骨が、フッ素の含有量の検査結果やその形態等により旧石器時代よりも後のものであるとされ、また石器を含め、それらが出土した地層年代にも疑問が持たれるとされた「発掘された旧石器は混入された可能性が高い」と指摘する、国立歴史民俗博物館教授の春成秀爾編集による報告書が2001年3月に刊行された。この調査が、後に聖嶽洞窟遺跡捏造疑惑の引き金ともなった(後述)。
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