聖地十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 23:58 UTC 版)
「シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯爵)」の記事における「聖地十字軍」の解説
1199年、エクリー・シュル・エーヌで騎乗試合に参加した際、シャンパーニュ伯ティボー3世の一団に加わり、第4回十字軍に参加した。十字軍はすぐにヴェネツィア共和国が主導権を握り、アドリア海沿岸のザーラ(当時はハンガリー王国の保護下。現在のザダル)に向かった。ローマ教皇インノケンティウス3世はキリスト教徒を攻撃しないよう特に警告していた。シモンはザーラ攻撃に反対し、これではフランク人たちはヴェネツィアを支持できないと主張し、ザーラの代表団が十字軍側に降伏しないよう待った。その結果、代表団はザーラへ戻り、都市の抵抗は続いた。フランク人領主の大部分はヴェネツィア共和国に借金をしていたので、彼らはザーラ攻撃を支持し、1202年に都市は陥落して略奪された。シモンはこの行いに参加せず、最も率直に批判した1人だった。彼と彼の仲間たちは、アレクシオス4世アンゲロスを帝位につけるために十字軍がコンスタンティノープルに向かう決定が下されると、十字軍から離脱した。代わりに、シモンと追従者たちはハンガリー王イムレ1世の宮廷へ旅し、そこからアッコンへ向かった。 1204年、第4代レスター伯ロベール(シモンの叔父)が嫡子のないまま没し、母アミシーが領地の半分を相続してレスター伯領の請求を行った。領地の分割は1207年初頭に行われ、最初に権利はアミシーとシモンに譲渡された。しかし、ジョン欠地王は、自らがノルマンディー、アンジュー、メーヌ、ポワトゥーに持つ領地をフランスに占領されると、フランスの男爵たちがイングランドに持つ全ての所領を没収した。
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