羽倉可亭とは? わかりやすく解説

羽倉可亭

読み方はくら かてい

幕末・明治篆刻家画家。名は良信、字は子文別号は可草堂。父・延年山城伏見稲荷社司で、父歿後同族信資の嗣となる。村瀬栲亭儒学学び篆刻を僧月峰細川林谷大窪詩仏に、更に画法岡本豊彦に学ぶ。維新後宮内省の命をうけて、たびたび御璽刻した明治20年(1887)歿、89才。

羽倉可亭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 00:55 UTC 版)

羽倉 可亭(はくら かてい、男性、寛政11年3月16日1799年4月20日[1] - 明治20年〈1887年8月12日)は、江戸時代後期の日本の書画家篆刻家である。

は良信、は子文、は可亭の他に亦可草堂がある。

略伝

京都伏見稲荷祠官である延年の子で同宗目代の信賢に養育されその継嗣となった。14歳で従五位下駿河守、17歳で非蔵人十八権目代となるが、24歳のとき職を辞して各地を遊歴した。

幼少のころに村瀬栲亭について経学を学び、僧月峯にと篆刻の教えを受けて、後に岡本豊彦に画を学んだ。売書売印の生活をしながら、江戸に出て大窪詩仏の門下となり、細川林谷に篆刻の法を受ける。明治維新後、宮内庁御璽や山水図を納めている。特に有栖川宮熾仁親王の寵遇を蒙っている。

米寿の祝賀を祇園中村楼で催し、山階宮晃親王久邇宮朝彦親王から祝の和歌を賜っている。

翌明治20年(1887年)8月竹坊にて没した。稲荷山に墓碑がある。息子の南園も篆刻を生業としている。

東京芸術大学大学美術館に山水図などが収蔵されている。

著作

  • 『天潢清流』明治13年(1880年)
  • 『可亭印譜』明治19年(1886年)

脚注

参考文献

関連項目




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