編入問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 20:47 UTC 版)
村政において岡山県へ編入する動きが幾度も発生した。1896年(明治29年)には、岡山県による編入の動きが起きたものの、村全戸の調印で合併反対、広島県存置の陳情書を提出し、編入を回避。1947年(昭和22年)12月25日には、村による「大谷堀切隧道期成委員会」が開かれた際に、七曲隧道の建設をめぐって隧道開削よりも岡山県へ編入するほうが村の将来のために有利だとの動議が出たものの、1948年(昭和23年)1月1日に開催された「山野村民大会」にて討論の結果、隧道開削を広島県に陳情することとし、編入を断念。1955年(昭和30年)の加茂村との合併をめぐっても岡山県編入が浮上し、自治庁は「県境を越えての合併は考えておらぬ。」とし、大原博夫広島県知事は「将来岡山県合併が容易に出来る時機が来たら山野村民の意見を尊重する。」としていたが、合併前の2月26日に村民一戸一票の住民投票で広島県内での合併が賛成多数となり、同日午後の村議会で山野村・加茂村・広瀬村との合併協定を決議。岡山県に編入することなく、広島県内での合併となり廃村となった。
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