継承と保存
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/25 03:47 UTC 版)
文渕は、下谷二丁町(現在の台東区台東一丁目)にあった文晁の画塾「写山楼」に出入りしていた。文晁の弟子文逸(二世文一)とは親しく交流し、文逸も文渕宅を訪問している。文晁自身も文渕のために天保8年(1837年)に「波濤雲龍図」を描いている。舩津家には、文渕が制作した粉本(下描き)や模本(模写)が数多くのこされている。天保11年(1840年)に文晁が歿すると、写山楼の所蔵であったと思われる多くの資料が舩津文渕に譲られたと考えられている,。文晁が収集した伝本阿弥光悦「三十六歌仙」や酒井抱一が光琳の画をまとめた作品集「光琳百図」などが文渕家に所蔵されている。多くの美術品が、長い年月の中で最初の持ち主の手を離れ、転々としながら伝来してゆくなかで、舩津文渕家の美術資料のようにまとまってその家に伝わり、美術品が制作された経緯もわかることは、美学美術史の研究の上で貴重なことである。 舩津文渕が文一の作品を模写した引馬図 天保元年(1830年) 伝本阿弥光悦「三十六歌仙」慶長頃(1596~1614年) 酒井抱一編「光琳百図」文化12年(1815年) 文化10年(1813年)の酒井抱一の句集『屠龍の枝』を、舩津文渕が天保10年(1839年)に移したもの
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