継承と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:52 UTC 版)
17世紀初頭、モンゴルでは分裂状態が続き、ボルジギン氏はほとんど勢力を失っていた。1634年に父リンダン・ハーンがチベット遠征中に甘粛で陣没すると、後金のホンタイジはモンゴルの一大拠点フフホトを占領した。翌1635年、ホンタイジはチャハルの残存部の制圧に乗り出しドルゴン、ヨト、サハリャン、ホーゲの四将軍にそれぞれ万騎を与えてリンダン・ハーンの継嗣エジェイらを捜索させた。 リンダン・ハーンの後を継いだエジェイはハルハのショロイ・マハサマディ・セチェン・ハーンにもハルハに投降するよう勧められていたが、最終的には清朝に投降することを決めた。こうして1634年、エジェイは生母スタイと共に1万を超える後金軍八旗騎兵に包囲される中で、「制誥之宝」と刻まれた大元の玉璽を差し出し降伏した。これによりモンゴル帝国は名実ともに滅亡した。ハーンの地位を手に入れたホンタイジは翌1636年に大清皇帝を名乗り、3月には全モンゴルの部族を首都ムクデンに集め、ボルジギン氏のハーンによるモンゴル支配の終焉を宣言した。
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