等価な音楽と言葉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 14:25 UTC 版)
ストラヴィンスキーは自作の『詩篇交響曲』のテクストについてこう述べている。「『詩篇』が歌われるように取り入れた交響曲ではない。それどころかむしろ、私が交響化した『詩篇』の歌唱なのだ。」この判断は非常にテクスト主義であり、また同様に音楽主義である。ストラヴィンスキーの対位法は複数の声部を求めており、それらは旋律やリズムの上では独立でありながら和声的には相互に関連しつつ同時に機能しなければならない。個々に聞けば非常に異なるにもかかわらず、同時に聞かれた場合には調和するのである。この声部の相互作用の清澄さを最大限まで高めるため、ストラヴィンスキーが使用したのは「合唱と器楽という2つの要素が同じ立脚点に位置するはずながら、いずれもが相手を超えないようなアンサンブル」であった。 マーラーが交響曲第8番で桁外れに強大な迫力を描くにあたって意図したのも、同様の声楽と器楽の間での力学的均衡であった。彼がそのような力を用いたことにより曲は報道関係者から「千人の交響曲」という通称を授けられたが、それは単に大袈裟な効果を狙ったものではなかった。ストラヴィンスキー同様、マーラーは対位法を広範囲に拡張して使用しており、それはとりわけ第1部の「来たれ、創造主たる聖霊よ」に顕著である。音楽ライターのマイケル・ケネディーによれば、マーラーは第1部を通して複数の独立した旋律的声部を操作するにあたり、相当な熟達度合を示しているという。音楽学者のデリック・クックはマーラーが強大な力を「並外れた明晰さ」で処理していると付言している。 ヴォーン・ウィリアムズも『海の交響曲』における言葉と音楽の均衡を強調し、作品のプログラム・ノートに次のように記している。「管弦楽が音楽的発想を実行に移すにあたり、合唱や独唱者らと対等な役割を担っているのだということも注目に値する。」音楽評論家のサミュエル・ラングフォードが作曲者に同意する形で『ガーディアン』紙に本作の初演について記したのは次のような内容であった。「これは我々が手にしている、真の合唱交響曲へ最も近づいた手法である。声楽は全編を通じてオーケストラと全く同じく自由に用いられている。」
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