第2幕以前と第3幕の「落差」
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「ジークフリート (楽劇)」の記事における「第2幕以前と第3幕の「落差」」の解説
『ジークフリート』の音楽は、第3幕からがぜん豊かさとスケール感を増しており、第2幕と第3幕の作曲に12年間の中断があることが「様式の不統一」あるいは「スタイルの変化」につながったと指摘される原因となっている。 しかし、これは様式面の不統一ではなく、ドラマの要求に沿ったものである。第2幕までメルヘン仕立てだったドラマが、より大きな世界悲劇の中心に行き着いた(後述)ことで、音楽もまた必然的に深みを増したものに変化している。同時に、純真無垢なジークフリートには「何も知らない」→木訥さを執拗に印象づける音楽を与え、第3幕で登場するブリュンヒルデには、神であったがゆえに「何でも知っている」→ありとあらゆる技法を駆使した音楽を与えるといった音楽語法の落差でもある。第3幕の幕切れはブリュンヒルデとジークフリートの二重唱であり、ここでワーグナーは通常のオペラ・スタイルをとった。とはいえ、二人の言葉には不一致があり、とりわけブリュンヒルデの歌詞にはつづく『神々の黄昏』の悲劇に結びつく亀裂が生じている。 ワーグナーは1869年2月23-24日のルートヴィヒ2世宛の手紙に次のように書いている。 いまここで『ジークフリート』について御報告するためには、第3幕の世界に足を踏み入れるたびに私の覚える崇高さ、おののきにも似た、暗く恐ろしい感情についてお話しなければなりません。私たちはここで蒸気を吹くデルポイの地割れの中に佇む古代ギリシア人のように大きな世界悲劇の中心に行き着いているのです。世界の滅亡が差し迫っています。(中略)ここでは、すべてが荘厳なおののきの気を帯びていて、謎を用いて表すほかはないのです。
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