第二次世界大戦・再び南米へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 09:54 UTC 版)
「天野芳太郎」の記事における「第二次世界大戦・再び南米へ」の解説
第二次世界大戦から、1941年(昭和16年)12月7日の日米開戦と同時に、敵国人してアメリカ官憲により逮捕、バルボア収容所に収容される。パナマ運河を租借するアメリカはここを軍事的・経済的要衝とみており、パナマに在住する日本人は総じてスパイ疑惑がかけられることとなったのである。天野の資産は没収され、アメリカオクラホマ州フォート・シル収容所、ルイジアナ州リビングストン収容所を経て1942年6月14日にニューヨークに移送され、日本とアメリカの残留者を互いに交換する交換船に乗せられた。交換船の中継地であるポルトガル領ロレンソ・マルケス(現在のモザンビークのマプート)を経て1942年8月に帰国し、藤沢市鵠沼に住んだ。翌年、二番目の夫人が病没し、二人の子どもを養育することになった。 帰国後、戦争中は残留した日系移民の帰国促進運動や、中南米の日系移民向け短波放送の実施などに関わる。また、パナマの事情に詳しいことから、軍部からパナマ運河についての聴取も受けたという。 戦争終結後、再び中南米での事業再開を望み、1951年2月14日、スウェーデン船籍のクリスター・サーレン号で日本を離れるが遭難し九死に一生を得た。しかし天野はなおも諦めず、1951年3月に川崎汽船の聖川丸で静岡県の清水港を出港し、カナダを経由してペルーに戻った。日本に強制送還される前に知人に託した資産を元手にペルーのチンボテに「インカ・フィッシング」を設立し、念願の事業を再開した。
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