突然の転任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 00:00 UTC 版)
1954年(昭和29年)、岩元は教育委員会からの指示により、退職を強いられた。「障害者の校長は認めない」という方針であった。当時はまだ、障害者の人権は無視される傾向にあったのである。岩元は「障害者でも校長になれることは、同じ障害者である生徒たちの象徴」と主張したが、教育委員会の態度が変わることはなかった。 幸いにも高等学校の教員免許があったため、妻と4人の子供たちと共に札幌に移り住み、札幌盲学校の高等部に赴任した。岩元はこの失意の中での人事を、障害者への侮辱と捉えて、札幌では校長と頻繁に衝突した。しかし岩元は次第に、高等部で教鞭をとることに、教育者として新たな喜びを覚えた。この学校は中途失明者も受け入れており、20歳代や30歳代の生徒もおり、子供たちとはまた別の教えがいが感じられた。 後に、岩元をキリスト教徒と知った生徒の依頼を受けて、「聖書クラブ」を設立し、生徒たちを集めて聖書についての学習の場とした。この聖書クラブについても、依然として校長は反対していたが、岩元はそれに抵抗しつつ活動を続けた。この聖書クラブが、21世紀以降まで活動を続ける北海道盲人キリスト信仰会の母体の一つとなった。この頃より、日本盲人キリスト教伝道協議会にも深く関わった。
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