空印寺「八百比丘尼略縁起」とは? わかりやすく解説

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空印寺「八百比丘尼略縁起」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 15:52 UTC 版)

空印寺」の記事における「空印寺「八百比丘尼略縁起」」の解説

現代語訳八百比丘尼は、荒礪命(あれとのみこと、膳臣(かしわでのおみ)の祖・佐白米命(さしろめのみこと)の子若狭国造の祖)の末流である当国村高長者の姫であった人皇37斉明天皇白雉5年(654)に誕生し、肌は白玉のように容顔美麗で、智徳万人優れていた。そのため世の人神仏再来崇めた。齢16歳の時、龍王白髪の翁となって現れ人魚の肉を与えた。姫はこれを食べたところ、不思議なことに幾百歳経て16歳時の容顔から変わることがなかった。120歳にして髪を剃り諸国巡遊し、ここに50年、あそこに100年止住し、所々で堂社を修造し、また道路開き橋梁け、五穀樹木繁殖教え、また尊皇奉仏、五常の道を授けた。よって諸国旧蹟のある所は勿論、広く尊崇集めた人皇100後花園天皇宝徳元年(1449)7月26日京都清水の定庵で教化止め生国若狭帰り後瀬山山中神明社近くに庵を結び住んでいたが、齢800歳にして当寺境内後瀬山麓の大巌窟入定した。人々名付け八百比丘尼、または八百姫とも寿長(ながす)の尼とも、また椿を特に愛し入定したので玉椿の尼とも呼んだ入定後、祈願する者あれば必ず不思議霊験があった。よって昔より都鄙遠近老若男女がこの霊地参詣し福徳寿命願い諸病平癒祈りその霊助を蒙る者が多かったため、昔から今に至るまで参信祈願絶えることがない

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