移転と第2の黄金期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 09:54 UTC 版)
この工廠の繁栄は17世紀末に向けて衰退していった。例えば、1668年のウリッジ工廠の仕事は9,669ポンドの価値があったが、近隣のデットフォード工廠は15,760ポンドであり、より巨大なポーツマス工廠 (£35,045) やチャタム工廠 (£44,940) とは比べるべくもなかった。しかしながら、18世紀の最初の前半でウリッジ工廠は勢いを取り戻した。敷地は2倍となり、同様に労働者も倍増した。そして1700年代の最初の10年にウリッジ工廠から進水した船は、他のイギリスのどの工廠よりも多かった。 1780年代には西に向けて工廠が再び拡大され、敷地はさらに倍化した。拡大された工場敷地の大部分は、主に空き地と木材乾燥小屋となっており、艦船の建造に必要な大量の木材を置いておくために用いられていた。これは、海軍の船がその数と船体規模を拡大していったため、より多くの材料が必要とされたことが理由だった。1720年から使われている敷地の東の端にあったマスト・ポンド(マストに用いる木材を馴らすための池)は、この当時すでに小さすぎると見なされており、新たに2つのマスト・ポンドが新設された。新しい池とマスト加工所では120フィート(37m)までのマストを収容することができた。 ナポレオン戦争期まで盛んに艦船建造は行われた。しかし、艦船がさらに巨大となってゆく一方で、テムズ川は泥が堆積し次第に浅くなっていった。そこで、1802年に蒸気駆動浚渫船がウリッジに配備された。しかし依然として堆積は続き、窮屈となってしまったウリッジやデットフォードなどの川沿いの工廠は、絶え間なく拡大を続けるポーツマス工廠やデヴォンポート工廠の後塵を拝することとなった。
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