神の沈黙の言語化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 01:38 UTC 版)
『海と夕焼』としばしば対比される作品に、切支丹の殉教を題材とした遠藤周作の『沈黙』があり、遠藤の作品でも沈黙する海が描かれている。『沈黙』でも奇蹟は起こらないが、主人公ロドリゴは信仰を捨てないという点に『海と夕焼』との違いがある。 『海と夕焼』発表から11年後の1966年(昭和41年)に、三島は谷崎潤一郎賞の選考で『沈黙』を遠藤周作の最高傑作として推薦し高評するが、作品末尾については異論を唱え、〈神の沈黙〉を沈黙のままに留めるのが文学の領域だとしている。 遠藤氏の信仰の中にある東洋と西洋の対立あるひは矛盾の問題は、氏自身の問題に引き寄せすぎると、いつも紛糾するのだが、ポルトガル人神父の目に仮託されて、はじめてみごとな遠近法を得た。遠藤氏の最高傑作と云へよう。同時に、末尾の「あの人は沈黙していたのではなかつた」といふ主題の転換には、なほ疑問が残る。神の沈黙を沈黙のまま描いて突つ放すのが文学ではないのか? それへの怨みと慨き(なげき)だけで筆を措くのが、文学の守るべき限界ではないのか? — 三島由紀夫「遠藤氏の最高傑作――谷崎賞選後評」 またその一方で、三島には〈「神」といふ沈黙の言語化〉こそ〈小説家の最大の野望〉であるのも確かだとも語り、〈人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」こと〉を考察している。 一面からいへば、神は怠けものであり、ベッドに身を横たへた駘蕩たる娼婦なのだ。働らかされ、努力させられ、打ちのめされるのは、いつも人間の役割である。小説はこの怖ろしい白昼の神の怠惰を、そのまま描き出すことはできない。小説は人間の側の惑乱を扱ふことに宿命づけられたジャンルである。そして神の側からわづかに描くことができるのは、人間(息子)の愚かさに対する、愛と知的焦燥の入りまじつた微かな絶望の断片のみであらう。 — 三島由紀夫「小説とは何か 七」
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