社名・歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 00:25 UTC 版)
創建年代は不明であるが、社伝では坂上田村麻呂が宇佐神宮を鎮守府胆沢城(現岩手県奥州市水沢)に勧請し鎮守府八幡宮と称したことに始まり、室町時代に入り奥州管領であった大崎氏が自領地内(現宮城県大崎市田尻町)に遷したため、大崎八幡宮と呼ばれるようになったという。 大崎氏改易後の慶長9年(1604年)、伊達政宗が仙台城(北緯38度15分11.2秒 東経140度51分23.3秒 / 北緯38.253111度 東経140.856472度 / 38.253111; 140.856472 (仙台城(本丸)))から見て北西(乾)かつ仙台城下町(北緯38度15分36.9秒 東経140度52分14.5秒 / 北緯38.260250度 東経140.870694度 / 38.260250; 140.870694 (仙台城下町の中心地「芭蕉の辻」))北西端の現在地に造営を始めた。当地は別当寺の龍寶寺(北緯38度16分17.4秒 東経140度50分45秒 / 北緯38.271500度 東経140.84583度 / 38.271500; 140.84583 (龍宝寺(別当寺)))の西隣にあり、城下町の北に連なる北山丘陵(七北田丘陵)と広瀬川とが接するために城下町がある河岸段丘の西端部にあたり、広瀬川上流の愛子盆地や山形方面に向かう作並街道(現国道48号)が超えなくてはいけない最初の難所の鶏沢(北緯38度16分12.2秒 東経140度50分35.5秒 / 北緯38.270056度 東経140.843194度 / 38.270056; 140.843194 (一部暗渠化された鶏沢に架かる鶏橋)) の城下町側に接する地である。慶長12年(1607年)、従来伊達氏が祀ってきた成島八幡宮と合祀して遷座し、仙台城下の乾(戌亥・北西)天門の鎮めとした(当宮の西隣の鶏沢には堤も造られた)。以前に大崎氏の家臣が行なっていた流鏑馬の神事は、その旧臣3人が祭りの日に仙台までやって来て勤めた。仙台藩は寛永15年(1638年)から彼らに旅費を支給した。後に社職の者も加わって4人が勤めた。 庶民から「八幡堂」とも呼ばれていたが、古来より社名は「大崎八幡宮」だった。明治4年(1871年)の太政官布告によって近代社格制度が制定されたのを機に、「大崎八幡神社」に改称された。鎮座400年の記念大祭を10年後に控えた平成9年(1997年)、「大崎八幡宮」の名称に復した。
※この「社名・歴史」の解説は、「大崎八幡宮」の解説の一部です。
「社名・歴史」を含む「大崎八幡宮」の記事については、「大崎八幡宮」の概要を参照ください。
- 社名・歴史のページへのリンク