社台グループの展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 02:03 UTC 版)
独立の翌年アメリカに渡り、現地の先進的な生産・育成方法に深い感銘を受けた善哉は、帰国後、社台ファームの土地の一部を売却し、北海道の白老、錦岡町(苫小牧市)、伊達に土地を購入し、白老を千葉社台牧場社台支場として、富里と白老の二カ所を使った二元育成法を開始した。1961年、善哉はアイルランドより種牡馬ガーサントを導入する。ガーサントは1969年にリーディングサイアーを獲得するなど一流種牡馬として活躍し、社台ファーム発展の土台となった。この頃、元調教師の佐藤重治と共に日本初の共同馬主クラブ『ターファイトクラブ』を設立し、その生産部門を担った。 1971年には千葉の牧場の一部を再び売却し、北海道早来の土地200haを買収して社台ファーム早来(現・ノーザンファーム)を開場、時を同じくしてアメリカ・ケンタッキー州にフォンテンブローファームを開き、場長に長男・照哉を据えてアメリカ生産界との緊密な関係を築いた。1978年にはフォンテンブローファームを売却して千歳に社台ファーム千歳を開き、これにより生産と育成を担う早来と千歳、生産を担う白老、現役馬の休養と調教を担う千葉という、現在まで続く社台グループの陣容がほぼ固まった。千歳ではアメリカで主流となっている昼夜放牧を取り入れるなど、新たな生産育成手法も積極的に導入した。1980年にはダイナースクラブと提携し、共同馬主クラブ『社台ダイナースサラブレッドクラブ』(現・社台レースホース)を設立、1992年には宮城県山元町に日本最大の競走馬育成施設、山元トレーニングセンターを開場した。
※この「社台グループの展開」の解説は、「吉田善哉」の解説の一部です。
「社台グループの展開」を含む「吉田善哉」の記事については、「吉田善哉」の概要を参照ください。
- 社台グループの展開のページへのリンク