礼儀作法よりも雁の肉を食べたい
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)
「西園寺禧子」の記事における「礼儀作法よりも雁の肉を食べたい」の解説
禧子は、兼好法師の随筆『徒然草』(14世紀前半)の第118段にも言及される。 禧子が中宮だった頃、父の西園寺実兼が禧子の御殿を訪ねた際、御湯殿上(おゆどののうえ、お湯を沸かす場で、女官の詰め所でもある)の黒御棚(女性が使う棚)の上に、調理の準備として雁の死体がそのままの姿で乗っているのを見たという。ところが、有職故実(古い朝廷儀礼)では、雉が最も品位の高い鳥とされ、雉以外の鳥を御湯殿上の黒御棚に調理前の姿で置くのは、厭わしいこととされていた。 びっくりした実兼は帰宅した後、いそいで娘の禧子へ手紙をしたため、こんな有様は見たことがありません、はしたないことです、しっかりした女官はいないのですか、と延々と禧子にお小言を食らわせたという。 実兼がここまで怒ったのは、当時の公家徳政という思想と関係がある。つまり、鎌倉時代当時、為政者が悪いことをすると天変地異が起こる、という思想が信じられていた(天人相関説)。そして、「悪いこと」とは、具体的に言えば、一つ目が訴訟問題の解決に失敗することで、二つ目が朝廷儀礼を疎かにすることだったのである。 この禧子の自由気ままな性格は、名著『建武年中行事』を著した有職故実学者で、理知的な性格の夫とは好対照である。たとえば、『徒然草』には皇太子尊治親王時代の後醍醐にかかわる話もあるが(第238段)、当時、尊治は堀川具親ら側近を総出してこれこれの漢文は『論語』のどこそこにあるのか、というのを調べさせており、兼好が該当箇所を具親に教えてあげると、具親は喜んで尊治に報告しに行ったという。後醍醐の和歌は、他人には思いやりをかける一方で、自身の境遇については陰鬱で翳りのあるものが多いが、禧子崩御後は一層その色彩が色濃くなり(→崩御)、ふさぎ込みがちな後醍醐にとって、明るく可憐な禧子の存在がいかに大切なものだったかがわかる。
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