破章法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 14:04 UTC 版)
中国では章法と呼ばれていたメトン周期に従って太陽太陰暦が編纂された。19年7閏によって構成される周期を章と呼び、その切替の年を章首と呼んだ。そして章を開始する基準日として章首の年における冬至を11月1日と定めて、19年7閏を経て再び同じ日が巡ってくるように暦が編纂されていた。この冬至は特に朔旦冬至と呼ばれ定期的な朔旦冬至の到来は暦の安定、ひいてはその暦を作成・頒布する王朝の安定の象徴として宮廷においては盛大な祝賀行事が行われた。 ところが五胡十六国時代、北涼の玄始暦(412年施行)からメトン周期によらない暦法(これを「破章法」という)が行われた。例えば、玄始暦では600太陽年 = 7421朔望月(7421/600 = 7001123683333330000♠12.368333333...)とし、南朝の大明暦(510年施行)では391太陽年 = 4836朔望月(4836/391 = 7001123682864450000♠12.368286445...)としている。 高度な計算に基づく破章法によって暦の精度が良くなったのであるが、その代償として章首の冬至が必ず朔旦冬至になるとは限らなくなり、冬至の日がずれたり逆に章首以外の年に朔旦冬至が発生する事態も起こった。中国の朔旦冬至の儀式と破章法暦法の両方を継承した日本ではこうした事態を不吉として捉えて、月の大小や閏月の順序を入れ替えることで強引に章首の朔旦冬至を実現させていた(改暦)。
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