砲車のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 02:19 UTC 版)
車はフランス軍工廠内でおよそ25年間ひっそりと保管された後、新たに設けられたアカデミーの博物館に移された。当時の権威からは時期尚早として見放されており、実際に軍役に貢献もできなかったが、のち、技術史の中でキュニョーとキュニョーの作り出した車は重要な役割を果たしたと評価され、現在まで名前が語り継がれている。 しかし、途中2度の破壊の危機があった。1793年には革命公安委員会がこの機械を分解し別の武器を作ろうとした。また、1797年にも大臣デュボワ・グランセ(Dubois Grance)の命により破壊されそうになった。いずれも砲兵工廠のL.N. ロランの保護により免(まぬが)れている。 アカデミーが1794年10月10日発足し、付属博物館としてサンマルタンデシャン教会 (l'abbaye St-Martin-des-Champs) の建物が使われ、そこが技術博物館 (Musée National des Techniques) とされた。 1799年、アカデミーConservatoire des Arts et Métiersの創設者モラール (Claude-Pierre Molard: 1759–1837) の要請により、1800年2月にアカデミー(パリ、コンセルバトワール)に修復後の砲車2号車は移され保管された。翌1801年から公開された。 歴史の荒波をくぐりぬけて奇跡的な保管状態の良さで現代まで保たれ、現在もパリ工芸博物館 (Musée des Arts et Métiers) に保管・展示されている。 ディーゼルエンジンを発明したルドルフ・ディーゼルはドイツ人ではあるが1858年にパリでこの博物館の近くに生まれ、子供の頃博物館で毎日のように遊び、展示物を眺めたり、スケッチしたりしていたという。
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