研究会での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:30 UTC 版)
「青木信光 (子爵)」の記事における「研究会での活動」の解説
大正時代、研究会の事実上の指導者であった清浦奎吾の組閣失敗(いわゆる「鰻香内閣」の件)後に、従来の研究会の方針を批判して指導的な地位に立つ。青木は従来の研究会の理念の一つであった超然主義を否定して政党との協力と貴族院内における勢力の拡張を目指した。その結果、長年の敵であった立憲政友会の原内閣が成立すると、これを支持して大木遠吉司法大臣を入閣させる。だが、自身は原敬からの閣僚就任要請を辞退して、日本銀行監事のみを受けた。以後もたびたびの閣僚就任要請に対してはこれを辞退して鉄道会議議員や内閣審議会委員、住宅営団監事と言ったいわゆる顧問的な役職のみを務めた。その一方で、研究会のイメージを高めるために近衛文麿を招聘したものの、清浦内閣の成立に関与しながらこれが倒れると護憲三派と手を結んだ青木のやり方に憤慨した近衛に離反されるなど、青木ら指導部の政治手法に対する不満から内紛が生じることがあり、研究会は貴族院最大会派の地位を保ちながらも次第に政治力を低下させていった。
※この「研究会での活動」の解説は、「青木信光 (子爵)」の解説の一部です。
「研究会での活動」を含む「青木信光 (子爵)」の記事については、「青木信光 (子爵)」の概要を参照ください。
- 研究会での活動のページへのリンク