矢田穏清斎とは? わかりやすく解説

矢田穏清斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 09:16 UTC 版)

神傳不動流 (真妙流系)」の記事における「矢田穏清斎」の解説

神傳不動流は幕末頃に京都の矢田穏清斎(やだおんせいさい)が伝えていた。矢田穏清斎は文化5年5月1808年)の生まれである。没年不明矢田帯刀、源徳幸とも名乗った羽客矢田半官流祖としている。羽客矢田半官から九世経て矢田讃岐守源頼章が諸流学び神傳慈眼流を開いた後、矢田帯刀源徳幸(矢田穏清斎)に至り神傳不動流と称したとされる夫れ當流武術羽客の傳にして矢田半官創業九世経て矢田讃岐守源頼章善く天下諸流学び悉く奥意極め遂に其妙旨に至りて長を採り短を補ひ亦一家の業を開き始め神傳慈眼流と称ふ 其後源徳幸に至り神傳不動流と唱ふ ほぼ同じ内容伝えていた神伝実用流伝承では、羽客の了心醉月翁を流祖としており七世を経て北條時吉諸流学び真妙流開いた後、藤原次に伝わり神伝実用流称したとされる藤原献次が伝えた神伝実用流伝承内容酷似しているが両流派の関係は不明である。 矢田穏清斎は幕末頃の京都東山矢田隊を組織していた。 子の矢田隆男(1847-1923)は、京都出身であり菊亭家家臣であった幕末に矢田穏清斎と共に京都私塾開いて柔術剣術教えていた。明治剣槍柔術永続社開いたことで知られる京都出身鷲尾隆聚(1843-1912)は矢田穏清斎の門人である。 明治3年7月に矢田穏清斎は、外山家から武術指南役誘われているが断っている。明治3年10月頃に元隊員湯川左衛門案内され来訪した和州天川郷(現在の奈良県吉野郡天川村)に滞在して武術教えた明治4年1871年)の二卿事件外山家関係者として矢田穏清斎と矢田隆男捕らえられた。矢田穏清斎は明治4年12月3日京都において終身監獄の刑となった明治5年2月鹿児島監獄署に送られ明治12年1879年71歳老衰のため放免となったまた、矢田隆男青森幽閉され明治15年1882年)に放免となった

※この「矢田穏清斎」の解説は、「神傳不動流 (真妙流系)」の解説の一部です。
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