矢田穏清斎
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「神傳不動流 (真妙流系)」の記事における「矢田穏清斎」の解説
神傳不動流は幕末頃に京都の矢田穏清斎(やだおんせいさい)が伝えていた。矢田穏清斎は文化5年5月(1808年)の生まれである。没年は不明。矢田帯刀、源徳幸とも名乗った。 羽客の矢田半官を流祖としている。羽客の矢田半官から九世を経て矢田讃岐守源頼章が諸流を学び神傳慈眼流を開いた後、矢田帯刀源徳幸(矢田穏清斎)に至り神傳不動流と称したとされる。 夫れ當流の武術は羽客の傳にして矢田半官の創業也 九世を経て後矢田讃岐守源頼章善く天下の諸流を学び悉く其 奥意を極め遂に其妙旨に至りて長を採り短を補ひ亦一家の業を開き始め神傳慈眼流と称ふ 其後源徳幸に至り又神傳不動流と唱ふ ほぼ同じ内容を伝えていた神伝実用流の伝承では、羽客の了心醉月翁を流祖としており七世を経て北條時吉が諸流を学び真妙流を開いた後、藤原献次に伝わり神伝実用流と称したとされる。藤原献次が伝えた神伝実用流に伝承と内容が酷似しているが両流派の関係は不明である。 矢田穏清斎は幕末頃の京都東山で矢田隊を組織していた。 子の矢田隆男(1847-1923)は、京都の出身であり菊亭家の家臣であった。幕末に矢田穏清斎と共に京都で私塾を開いて柔術と剣術を教えていた。明治に剣槍柔術永続社を開いたことで知られる京都出身の鷲尾隆聚(1843-1912)は矢田穏清斎の門人である。 明治3年7月に矢田穏清斎は、外山家から武術指南役に誘われているが断っている。明治3年10月頃に元隊員の湯川半左衛門に案内されて来訪した和州天川郷(現在の奈良県吉野郡天川村)に滞在して武術を教えた。 明治4年(1871年)の二卿事件で外山家の関係者として矢田穏清斎と矢田隆男は捕らえられた。矢田穏清斎は明治4年12月3日に京都において終身監獄の刑となった。明治5年2月に鹿児島監獄署に送られ明治12年(1879年)71歳で老衰のため放免となった。また、矢田隆男は青森に幽閉され明治15年(1882年)に放免となった。
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