矢田氏と矢田藍物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 09:55 UTC 版)
小山田村の元々の名称は山田の意味だった。山近くも農地の一般名称は明和2年の古文書の加富神社紀の記述では、上の村が小山で下の村が山田で小山と山田が合体した合成地名である。正平14年に小山田城で川嶋宮内少輔が居城と三重県内の史料の記述にある。水沢村の足見田と足見川付近で深いつながりがある。慶長11年に小山田村で吉田原の記述がある。戦国時代に山田に矢田藍物(やだ けんもつ)喜太郎が、小山に萩原小太郎が、六名に則武氏がいた。 永禄10年に織田信長の北勢攻略から矢田氏が家系存続できた。矢田氏は1550年頃の戦国時代に足利義晴に仕えて主君亡き後に各地を放浪して小山田に移住してきた。織田氏から攻撃で滅亡しなかったが、天正11年に滝川一益から小山田城を没収された。兵70人と共に豊臣秀吉の家臣となった. 小山田城は秀吉方の桑名城主の天野氏の所領となった。 矢田氏は天正18年の小田原の陣の北条氏との戦いで当主が戦死して滅亡した。
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