甲斐国の守護所府中の変遷とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 甲斐国の守護所府中の変遷の意味・解説 

甲斐国の守護所・府中の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:36 UTC 版)

躑躅ヶ崎館」の記事における「甲斐国の守護所・府中の変遷」の解説

甲斐国では南北朝時代安芸守護・武田信武入府し、在地石和武田氏没落した。信武・信成・信春時代15世紀初頭まで)に守護所八代笛吹市)・千野甲州市塩山千野)に置かれそれまで政治・経済的中心地であった石和笛吹市石和町)から離れた場所に移転された。一方で武・信春は笛吹市石和町市部観音寺笛吹市石和町松本大蔵経寺など寺社再興行い一族石和近辺に住まわせている。 室町時代甲斐守護武田信満信元信春穴山氏)・信重・信守の時代15世紀初頭から15世紀中頃)に守護所石和に近い小石和(笛吹市石和町小石和)に移転された。この時代甲斐国室町幕府鎌倉府抗争影響され応永23年1416年の上禅秀の乱において武田信満滅亡する甲斐守護不在態となる。これにより有力国人守護代跡部氏台頭し乱国態となった。 守護武田信昌・信縄の時代1466年頃から1518年)には跡部氏排斥される。『甲斐国志によれば、信昌は甲府盆地東部甲府市川田町川田館に居館構え家臣団集住させた。これにより守護所石和回帰し笛吹川挟んだ商業地域分離した城下町形成した。 信昌は嫡男・信縄に家督譲り落合山梨市落合)に隠居するが、信昌は次男の信恵(油川氏)を後継者とすることを望み守護・信縄と信恵の間で内訌発生した。信縄の子信虎(初名は信直)は永正5年1508年)に信恵を敗死させると、信虎による甲斐統一進捗した

※この「甲斐国の守護所・府中の変遷」の解説は、「躑躅ヶ崎館」の解説の一部です。
「甲斐国の守護所・府中の変遷」を含む「躑躅ヶ崎館」の記事については、「躑躅ヶ崎館」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「甲斐国の守護所府中の変遷」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「甲斐国の守護所府中の変遷」の関連用語

甲斐国の守護所府中の変遷のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



甲斐国の守護所府中の変遷のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの躑躅ヶ崎館 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS