甲斐国の守護所・府中の変遷
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「躑躅ヶ崎館」の記事における「甲斐国の守護所・府中の変遷」の解説
甲斐国では南北朝時代に安芸守護・武田信武が入府し、在地の石和流武田氏は没落した。信武・信成・信春の時代(15世紀初頭まで)に守護所は八代(笛吹市)・千野(甲州市塩山千野)に置かれ、それまでの政治・経済的中心地であった石和(笛吹市石和町)から離れた場所に移転された。一方で信武・信春は笛吹市石和町市部の観音寺や笛吹市石和町松本の大蔵経寺など寺社の再興を行い、一族を石和近辺に住まわせている。 室町時代の甲斐守護・武田信満・信元・信春(穴山氏)・信重・信守の時代(15世紀初頭から15世紀中頃)に守護所は石和に近い小石和(笛吹市石和町小石和)に移転された。この時代に甲斐国は室町幕府と鎌倉府の抗争に影響され、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱において武田信満が滅亡すると甲斐は守護不在状態となる。これにより有力国人や守護代・跡部氏が台頭し、乱国状態となった。 守護・武田信昌・信縄の時代(1466年頃から1518年)には跡部氏が排斥される。『甲斐国志』によれば、信昌は甲府盆地東部の甲府市川田町の川田館に居館を構え、家臣団を集住させた。これにより守護所は石和に回帰し、笛吹川を挟んだ商業地域と分離した城下町を形成した。 信昌は嫡男・信縄に家督を譲り落合(山梨市落合)に隠居するが、信昌は次男の信恵(油川氏)を後継者とすることを望み、守護・信縄と信恵の間で内訌が発生した。信縄の子・信虎(初名は信直)は永正5年(1508年)に信恵を敗死させると、信虎による甲斐統一が進捗した。
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