田口八重子と同居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 21:28 UTC 版)
「田口八重子」および「金淑姫」も参照 北朝鮮の工作員であった金賢姫が2009年に飯塚耕一郎(田口八重子の長男)に語ったところによれば、1984年(昭和59年)頃には平壌南東約20キロメートルの中和郡忠龍里にある日本人居住地で拉致被害者田口八重子と金賢姫の同僚工作員であった金淑姫の3人で生活していた。金淑姫は金賢姫に対し、忠龍里の招待所は「電気事情が悪く寒いので、服を何枚も重ね着していた」と語ったという。横田めぐみは当時、金淑姫に日本語を教えていた。金賢姫は、2009年の韓国誌『月刊朝鮮』のインタビューでも、「横田めぐみが金淑姫に日本語を教えていた。横田と淑姫が一緒に写ったポラロイド写真も見たことがある」と証言している。また、金賢姫が工作員教育を受けているとき、「おとなしく、憂鬱気味で、よく病気になり入院していた」という風評を耳にしたという。 地村(旧姓浜本)富貴恵の証言によれば、1985年1月頃まで金淑姫と田口八重子、横田めぐみが同居していたが、途中で淑姫がいなくなって八重子とめぐみが忠龍里一地区で2人で暮らすようになり、1985年末に同じ忠龍里の二地区に移され、1986年春頃に八重子が腰痛のため915病院に入院したため、横田めぐみが1人残されたが、そこに近所に住んでいた金英男が通い、彼女から日本語を習ったと証言している。 また、チャールズ・ジェンキンスによれば、1985年から1986年にかけて一度外貨専用の「楽園百貨店」で子供連れで買い物に来ていたジェンキンス・ひとみ夫妻とめぐみが偶然出会い、めぐみは2人の娘の美花をあやしたり、日本語のわからないジェンキンスに朝鮮語で「奥さんと私は大の仲良しです」と話したりしたことがあった。
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