生母麻績氏の消息とは? わかりやすく解説

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生母・麻績氏(太方様)の消息

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 03:00 UTC 版)

諏訪御料人」の記事における「生母麻績氏(太方様)の消息」の解説

早く死去したとされる諏訪御料人比べ、その生母麻績氏は、武田家当主となった武田勝頼外祖母として、天正10年1582年3月武田氏滅亡まで存命している。太方様(おだいぼうさま)と称された。 天文11年1542年)に、夫の頼重切腹し諏訪惣領家滅亡した後は、同じ諏訪氏一族禰津元直元に、娘と共に身柄預けられていたという説がある。 禰津元直息子禰津神平は、武田信虎娘婿でもあり、武田氏諏訪氏双方関わり深かったため、禰津元直元に小見氏諏訪御料人預けられたと考えられている。その後何年かは不明だが、娘が信玄嫁いだ後、小見氏引き続き禰津元直元に身を寄せていたと思われる。 『信州日牌帳』によれば永禄8年1565年3月21日には勝頼による逆修供養生前供養が行われている。勝頼と共に高遠城暮らしていたという。天正3年11月に勝頼が諏訪南宮長野県辰野町)へ奉納した棟札には、勝頼嫡男の信勝(武王殿)とともに御祖母」の名が記されている。天正6年1578年10月には被官池上清左衛門無足奉公していたことを知った麻績氏は、勝頼の側近小原継忠跡部勝忠依頼し彼に五貫文の所領与えてくれるように頼み、それを実現させたという。麻績氏直筆仮名書き朱印据えた消息残されている。 さらに、勝頼・鎮目左衛門尉により鎮目寺(山梨県笛吹市春日居町鎮目)に奉納され棟札にも「大奉様」の名が記されている。この棟札は年未詳であるが、武田家臣のうち甘利信恒山県昌満両名の名が見られ甘利信恒天正4年1576年9月陣中殺害していることから、天正3年1575年5月21日長篠の戦いから天正4年の間に推定されている。『信長公記によれば天正10年3月11日に勝頼一行天目山自害した際に、勝頼に従った「勝頼の叔母大方」の名が見られることから、勝頼とともに自害した見られている。 長野県長野市大岡地区天宗寺同県朝日村古川寺墓所がある。

※この「生母・麻績氏(太方様)の消息」の解説は、「諏訪御料人」の解説の一部です。
「生母・麻績氏(太方様)の消息」を含む「諏訪御料人」の記事については、「諏訪御料人」の概要を参照ください。

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