王子としての役割とヘンリー4世との対立
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「ヘンリー5世 (イングランド王)」の記事における「王子としての役割とヘンリー4世との対立」の解説
1408年まで、ヘンリーはオワイン・グリンドゥール(オウェイン・グレンダワー)によるウェールズの反乱の鎮圧に注力した。その後、父の健康状態の悪化によって次第に彼の政治的権威が高まってきた。1410年1月からは叔父にあたるヘンリー・ボーフォートとトマス・ボーフォート兄弟に助けられつつ、実質的な政権の支配者になった。 ヘンリーの政策は国内政策・対外政策ともに父と異なっていたため、1411年11月の御前会議に彼は呼ばれなかった。のみならず、翌1412年1月に評議会のメンバーが入れ替わり、ボーフォート派が更迭され代わりに父が信任する人物が入れられた。その中に弟のクラレンス公トマスもいたためヘンリーとクラレンス公の関係は一時悪化した。ボーフォート兄弟が父の退位を画策していた可能性はあるが、この親子が対立するのは政治方針のみであり、後に両者は和解している。そしてボーフォート兄弟に対立する勢力はヘンリーの中傷に躍起になった。 百年戦争期の当時のフランスでは国王シャルル6世は精神異常のため事実上政務を執ることが不可能な状態であり、ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて内戦状態にあったため、とても外敵からの自国の安全を保てる状態にはなかった。ヘンリー4世は大陸にあるアキテーヌの保持を第一に考え、外交は消極的で両派から援軍を持ちかけられても露骨な肩入れは避け、1411年10月にブルゴーニュ派の味方として2000人を派兵、1412年8月にアルマニャック派と手を組み4000人のイングランド軍を派遣したが、どちらも小規模ですぐ撤退したため戦局に影響を与えなかった。対するヘンリーは積極的にフランスへ介入するためブルゴーニュ派との関係を重視、内乱に付け込んで北フランスを征服することを目標にしていたため、これが父から遠ざけられる元となった。 1413年3月20日に父王が崩御すると、翌日にはヘンリーが王位を継承し、4月9日に戴冠式が行われた。
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