物語の中のギヨーム
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「ギヨーム・ド・ジェローヌ」の記事における「物語の中のギヨーム」の解説
詳細は「en:La Geste de Garin de Monglane」を参照 ギヨームのカール大帝に対する忠勤ぶりは封建時代の忠誠の一例として描かれている。サラセン人に対するギヨームの軍功は『La Geste de Garin de Monglane』とよばれている12世紀および13世紀の叙事詩の中でうたわれており、20ほどの武勲詩が伝説上の人物であるゲランのひ孫のギヨームを中心として描かれている。 しかし、その一節がギヨームの父、エメリー・ド・ナルボンヌと言われる人物の事績にあてられている。エメリーはカール大帝とともにスペインから戻った後に領地としてナルボンヌを得たとされている。詩に描かれているエメリーの事績は、実在した1108年から1134年にかけて活躍したナルボンヌ子爵の人物像が含まれている。この武勲詩において、エメリーはディディエの娘でランゴバルド王ボニファーチョの姉妹エルメンガルトを与えられている。エメリーには7人の息子と5人の娘(うち一人はルートヴィヒ1世と結婚)がおり、その中の一人がギヨームということになっている。 オランジュでのムーア人に対する勝利は、12世紀の叙事詩『Prise d'Orange』において伝説的な扱いを受けている。そこでギヨームはショルソーに代わりトゥールーズ伯位を受け、778年にアキテーヌ王となっている。伝説や叙勲詩においてギヨームに与えられている武勲、家系および様々な称号(ギヨーム・フィエラブラ、低い鼻のギヨーム、ナルボンヌのギヨーム、オランジュのギヨーム)を、ギヨームから切り離すことは難しい。ギヨームの妻は改宗したサラセン人オラブルで、改宗後の名をギブールといった。
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