片瀬の近代化と山本家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:02 UTC 版)
「片瀬 (藤沢市)」の記事における「片瀬の近代化と山本家」の解説
江戸時代は片瀬村の名主だった山本家の庄太郎は、1873年(明治6年)、江の島道の片瀬川「石上の渡し」の箇所に架橋し、「山本橋」と命名した(後に下流に同名の橋が架橋されたため、「上山本橋」と改名された)。1878年(明治11年)の郡制施行より長期にわたって鎌倉郡の郡長を務め、片瀬村北西部低湿地を干拓して水田化を進めた。東浜に海水浴に訪れた暁星学校の職員らと偶然出会って自宅に招き、学齢期だった次男信次郎、三男三郎を暁星学校に進学させた。さらに1907年(明治40年)、乃木希典が学習院院長に就任すると、片瀬游泳指導時には山本家が宿舎を提供した。 庄太郎の長男百太郎は、若くより片瀬村の収入役、郵便局長などを務め、江ノ電の大株主になった。百太郎は自宅近くの片瀬川に「山本橋」を架橋し、砂丘上に砂防林のクロマツを植樹するなど別荘地開発のインフラ整備に努めた。次男信次郎(後に海軍少将)、三男三郎(後に桂太郎首相の秘書)は暁星学校でカトリックに入信し、自宅にカトリックの仮聖堂を設けた、これが後にカトリック片瀬教会に発展し、片瀬乃木幼稚園・小学校・高等女学校(戦後は湘南白百合に改名)の開設に結びつくのである。
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