無頼派の名乗りを上げる羽抜鶏
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夏 |
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評 言 |
夏が近づくと鳥の羽は抜け落ちる。抜け替わるためではあるが、地肌を見せた姿は滑稽であったり悲惨であったりする。鶏と書くことから飼育されている矮鶏や地鶏を見てのことであろう。ケージの中に居る鶏には雄鳥もいて、甲高く鳴いたり喧嘩を仕掛けたりしている。その中の数羽が無頼派の名乗りを上げたのである。鶏は無個性のように思われているがじっくり見ていると実に個性的である。目があうと必ず知らん顔をする弱気な奴。常に胸を張り堂々と歩く親分肌。群れになると大騒ぎする雌鶏たち。そして、誰にでも喧嘩を仕掛けて歩き煙たがられているのが、作者の言う無頼派ではなかろうか。 「吉良常と名付けし鶏は孤独らし」という句があまりにも有名な俳人、穴井太の「天頼通信」を引継いだ福本にとって、正に面目躍如の作品である。派という限り一羽ではなく複数であろう。そういうならずもの集団を福本が発見し、それらを治める親分鶏「吉良常」を随分前に発見したのが穴井太なのである。鶏の世界を見る両者の視線に差があるものの、それをまるで人間社会のように見立てる感覚は同様のものを持していることが実に嬉しい。 サラリーマンとして活躍する福本も私たちも、無頼派宣言をする訳にはいかない。そんなことをすると現代社会では生活して行けない。この鶏社会の中ではそれがまだ可能だ。自由闊達に振る舞う無頼派を羨みつつ少し癒されていることも事実だ。鶏社会の気楽さを十分に堪能した作者は、また明日から淡々と人間社会で生きていくのである。どのような軍鶏に挑発されても一向に動じない、木鶏のようになるべく。 写真:荒川健一 |
評 者 |
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備 考 |
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