無名こそ貫きとほす霜柱
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評 言 |
私が俳句と出会ったのは、同郷の作家、中上健次氏が地元和歌山県新宮市に作った「熊野大学」の手伝いを始めたのがきっかけだ。氏が亡くなったすぐ後、なぜか熊野大学の「俳句部」に誘われることが多くなり、試しにその句会に参加してみた。 当時の句会の講師は三人。宇多喜代子氏、茨木和生氏、そして中上氏の兄貴分で熊野の俳人、松根久雄さんだった。 初めて参加した句会で出会ったのがこの句だった。私は生まれて初めて「俳句」というものの凄さがわかったような気がした。それまでは教科書などで俳句を見てもなんだかわからなかった。しかし、句会でこの句の作者が誰かわかった時、なるほど、「松根久雄」という人物をうまく表している句だと感じた。 中上さんが熊野で行動する時、松根さんはいつも一緒にいた。影で大きな役割を果たし、自らを「熊野のコーディネーター」と言っていた。自身は『奇蹟』のトモノオジのモデルとも言われているが、同じく中上さんの小説の重要な登場人物「オリュウノオバ」を彼に引き合わせたのも松根さんである。中上さんが俳句に興味を持ったのも松根さんがいたからだった。二人はしょっちゅう喧嘩をしたが、お互いほんとうに尊敬し合っていた。 「ケンジが光やったらボクは影や」そんな言葉が聞こえてきそうな句だ。それは決して卑屈な意味ではない。まったく逆の意志である。「霜柱」という言葉のもつ緊迫感が、その決意を見事に表現している。そういうふうにこの句で初めて「季語」というものの力をおぼろげながら知った。 その後、松根さんが亡くなるまで俳句や熊野のいろんなことを教えてもらった。 私は何かにつけてこの句を思い返し、俳句と出会った頃を思い、松根さんという「熊野」そのものとも言える漢(おとこ)を思い出すのだ。 |
評 者 |
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備 考 |
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