渡米と1度目の帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 01:43 UTC 版)
1889年(明治22年)、仕えていた海軍大尉の一家がアメリカに帰国することになり、誘われるまま一緒にアメリカへ行くことを決めた。同年1月26日、サンフランシスコ行きの「シティ・オブ・リオデジャネイロ号」に乗船し、横浜港を出港、アメリカへ渡った。この時里きは24歳であった。アメリカに渡った里きは、アメリカ人男性と結婚、1891年(明治24年)8月11日に長女モヨを出産した。里きと結婚した男性は後に亡くなり、彼の名前は不明であるが、彼の子孫であるというアーノルド・ヴァン・ベンスコーテンという人物が、第二次世界大戦後に姫路市進駐軍軍政官として来日した際、モヨの家族に連絡をとったことは分かっている。1892年(明治25年)頃、アメリカで農場を経営していた鹿児島県薩摩郡さつま町(旧宮之城町域)出身の宇都宮源吉(山田源吉とも名乗る)と出会い、共同生活を始めた。 渡米から5年が経過した1894年(明治27年)、アメリカで富を築いた里きは、娘のモヨを連れて帰国、片田村に戻った。垢抜けた顔立ち、身に付いた洋服、会話の端々に英語が混ざる話し方など、片田村を出た時とは見違える女性になった里きに村人は驚き、その評判は村外まで広まった。帰国の時土産として3本の木を持ち帰ったが、トランクの中で1本は枯れてしまい、残る2本を英虞郡和具村(現在の志摩市志摩町和具)に住む叔父の雲碩と片田村に住む姉のなをに贈った。里きはアメリカの衣食、乗り物、男女の振る舞いなど多くの話をしたが、中でも「アメリカは労働賃金が高く、まじめに働けば相当な貯蓄ができる」という話に村人は魅了された。そしてこの話を聞いてアメリカへ行くことを希望した男性3人、女性4人を連れて、1895年(明治28年)に神戸港から再びサンフランシスコへ渡った。渡航にかかる乗船料は2011年現在の価値に換算して1人あたり約40万円であったが、里きは一緒に渡った7人全員分の船代を負担した。
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