清水清次の処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/02 14:27 UTC 版)
江戸で清水の取り調べが行われている一方、横浜では清水の処刑の段取りについて幕府とイギリス側の協議が行われていた。 イギリス側は犯行の行われた鎌倉での清水の処刑と梟首を主張したが、幕府は鎌倉が宗教的に神聖な土地であるという理由でこれを拒否した。そこで協議の結果、処刑は横浜で行われる事、替りに鎌倉を始めとする外国人遊歩区域の各所に罪状書を掲示する事が決定した。 当初清水の処刑は11月29日(12月27日)、江戸からの移送後、イギリス側による簡単な尋問と目撃者による面通しを経て、横浜市中引き回しの後に行われる予定であった。 しかし清水の到着が遅れて夕刻になった上、引き回しが長時間に及んだため、イギリス側の要請によって処刑は急遽翌日に延期され、翌11月30日(12月28日)、清水は戸部の鞍止坂刑場にて多くの外国人や日本人の見守るなか斬首、その首は吉田橋に晒された。 この清水の引き回しから処刑まで同行した第20連隊所属の通訳官ラクラン・フレッチャーらによれば、清水の態度は非常に快活で堂々としたものであり、引き回しの際には見物の群衆に向かって自分はかって水戸では高名な役人であり、その遺体は故郷の水戸に手厚く葬られるだろうなどと語って役人に制止され、また辞世と思われる和歌や詩吟などを大声で口ずさんでいたという。 なお捜査の推移を見守るため帰国を延期していたオールコックは清水の取り調べの完了とともに代理公使を務めるチャールズ・A・ウィンチェスター横浜領事に後事を託し、11月27日(12月25日)に横浜を出港している。
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