海底トンネルによる青函連絡として工事再開案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:52 UTC 版)
「大間線」の記事における「海底トンネルによる青函連絡として工事再開案」の解説
太平洋戦争後の1946年(昭和21年)、国鉄は再び内部に青函トンネル調査委員会を設け青函隧道計画が持ち上がった。東ルート案ではこの区間を通ることになっていたため、それまでは地図には予定線として記載され工事再開の備えがあったようだが、1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけての調査により下北半島北岸に水深240-300mにある谷が海岸線と平行してあり、那須火山帯上にもあたり地質上適切ではないことが分かり、1968年(昭和43年)に西ルートに決定してからは、予定線として記載されることもなくなった。 1964年(昭和39年)に道南海運が大間 - 函館間に外洋フェリー航路としての大間函館航路(大函航路)を開設すると接続道路として大間線の用地を道路に転用する案が有力になり、1969年(昭和44年)に青森県が購入、のちに国道279号に利用したために大間線の開通の可能性はなくなった。 海峡を挟んで接続する予定だった戸井線も同じく未成に終わった。
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