河野通宣・村上通康、毛利氏に救援を依頼
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「毛利氏の伊予出兵」の記事における「河野通宣・村上通康、毛利氏に救援を依頼」の解説
9月21日、河野軍は土佐国から大洲へ向かう街道沿いの城2つを確保した。しかし、村上通康は、安芸国吉田郡山城の毛利氏に使者を送り、小早川軍の伊予出陣と支援を要請した。毛利元就は過去に村上通康の支援を受けたことを感謝し、「厳島の恩返し」と称して、支援を決定。小早川隆景はこの要請を受け、10月18日に一門であった梨子羽氏を大将として備後国衆200を派遣することを決定した。村上通康はもはや河野軍だけでは事態の収拾は不可能と考え、このような援軍の要請に至ったのである。しかし、その通康は陣中にて急病に倒れ、毛利が援軍を決定する前の10月2日(もしくは10月27日)に、帰還した道後で死去した。 村上通康の死去によって、毛利軍の伊予出兵は宙に浮いた形となったが、小早川隆景はこの戦を放棄せず、自身の戦いとして伊予へ出兵することに決定した。しかし、伊予の情勢にもっとも詳しい乃美宗勝が、大友氏との戦いに備えて九州へ出陣しており、すぐの帰還は難しい状況にあった。11月3日の書状で、小早川隆景は乃美宗勝に宛てて書状を出し、「伊予国での一条氏との戦いは我々の援軍がなければ立ち行かぬ」と述べている。また隆景は来島村上氏の一族・村上吉継とも緊密に連絡を取り、軍事行動を展開すべく相談を重ねた。村上吉継を案内役として、同年冬、伊予国へと出陣することとなった。
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