沖縄人連盟と日本共産党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/14 00:10 UTC 版)
「沖縄人連盟」の記事における「沖縄人連盟と日本共産党」の解説
沖縄人連盟は当初、党派的に中立と言われていた伊波普猷を会長に選出したが、実際には、発案し組織結成に奔走した松本三益や、顧問を務めた徳田球一など、日本共産党の影響が強かった。「沖縄県人会」ではなく、「沖縄人連盟」という名称になったのも、同時期に結成された「朝鮮人連盟」の影響があるといわれている。日本共産党も「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」を送るなど、朝鮮人連盟と同様の扱いを取っていた。そして結成大会においても、「戦犯追及」と称して沖縄県出身帝国議会議員を糾弾し入会させない事を決議したため、非左派の幹部は距離を置くようになった。早くも1945年12月には発起人の一人である大濱信泉が脱退しているが、大濱は連盟結成時からある種の政治的イデオロギーへの傾斜を危惧し批判もしており、GHQへの請願書の中に祖国日本を糾弾する内容が書き込まれた事に対する抗議でもあった。 後に起こった内紛でも、一部幹部の腐敗に対する怒りだけでなく、沖縄人連盟の左傾路線に対する反発も含まれていた。 沖縄連盟への改称も、当時日本共産党員の多数いた朝鮮人連盟と同一視され、レッドパージの対象となる事を避けるためであった。
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