沖縄人の沖縄をつくる会
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1968年11月10日に行われた第1回行政主席通常選挙で保守派の西銘順治を応援した亀川正東や山里永吉は沖縄自民党に愛想を尽かし、復帰運動に対抗する勢力を模索し、同年秋に「沖縄人の沖縄をつくる会」を発足させた。同会会長には第2代琉球政府行政主席を務めた当間重剛が、事務局責任者には『沖縄時報』社長の崎間がそれぞれ就任した。1969年、『琉球新報』文化面に「沖縄は沖縄人のものだ!」という見出しの5段広告を掲載し、住民を驚かせた。さらに『朝日新聞』、『毎日新聞』、『読売新聞』にも広告を打とうとするが、圧力がかかり不発に終わった。また、会員だった国場幸太郎はじめ有力財界人も次々に脱退し、「沖縄県の沖縄をつくる会」は3か月で事務所を閉鎖し、1970年末には解体状態となった。
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