「暁に祈る」事件とは? わかりやすく解説

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「暁に祈る」事件

(池田重善 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/02 20:49 UTC 版)

「暁に祈る」事件(あかつきにいのるじけん)は、第二次世界大戦終結後の1940年代後半、ソ連軍によるシベリア抑留の収容所において、日本人捕虜の間で起きたとされるリンチ事件。リンチの指示を行ったとされる人物が、日本への帰国後に逮捕・起訴されて有罪判決を受けたが、本人は冤罪であると主張していた。事件が起きた部隊の名称から「吉村隊事件」とも呼ばれる。


  1. ^ 池田は1949年4月13日の証人喚問で、
    「あちらの国においては昼間の処罰は認められません。それで晩の十時から朝の五時まで五、六名を留置場の中、あと残りは全部外に立たせ、或いは坐らせるというふうに実施しました。そうして丁度外におる者は格好が、結局東方を向きまして、丁度五時頃になりますと、東の空が明るくなつて來る。そのために睡魔に襲われて居睡りを始める。その格好が丁度暁に祈るというような格好に見えたのであります。
    と証言している(モンゴル側による処罰に基づく措置であるという前提での証言)。
  2. ^ 当時シベリア抑留者の経験を描いた本がはやっていたという。週刊朝日1949年3月13日号の特集で記者らが手分けして読んだ12冊中だけでも6冊に吉村隊のことが出ていたという。その中にとくに詳しく当事件を描いたものとして、後に胡桃沢耕史のペンネームで知られるようになった清水正二郎の『国境物語』があった。
  3. ^ モンゴルは当時、獣葬の国で遺体は通常野晒しであったが、日本人死者の場合、土を掘って埋める形をとってくれるケースもあったようである。ウランバートルの病院では春になって裏山に穴を掘り、そこに日本人を埋めたという話も刊行本には出てくる。白樺の墓標というのは、伝える者が必ずしも墓所そのものを見たわけではないので、ロシア・シベリアからの抑留者の話のイメージが混入していることも考えられる。なお、佐藤悠自身が墓標2千本の話を誤解している節があるが、彼によれば千六、七百柱のモンゴルの日本人墓地が実際に存在するとのことである(凍土の悲劇P.145)。
  4. ^ 全国的に証人を探して行った検察の捜査結果報告では、処罰で亡くなったのは5人とされている。なお、立件できるかどうかの問題もあり、検察が最終的に起訴した死亡事件は、「清心寮」での拘禁処罰後の死者を含めた2名である。
  5. ^ この原田証言にもかかわらず、毎日新聞は、堀金栄証人が「暁に祈る」の処罰で死んだというのは自身は隊内の噂で聞いただけで確証はないと語った証言[8]をとらえて、「連日池田氏と対抗の立場にあった他の証人も結局『暁に祈る』では一人も死んでいないことを認めた」と、あたかも他の証人全てが処罰による死者がいないとでも認めたかのようにも読める報道のしかたをしている[9]。 なお後に、証人の一人である笠原金三郎は、日本経済新聞社系の東京12チャンネル(現:テレビ東京)の取材で、彼自身は1時までで済んで救かったものの、零下30度から50度に下がるため、防寒着を着ていても『暁に祈る』はとても耐えられるものでなく死んだ者もいると語っている[10]
  6. ^ 毎日新聞の報道によれば、参院でこの問題を担当した引揚特別委員会の紅露つゆ委員長(日本民主党)は舞鶴に出張した際、事件を感情的問題と決めつけ、外国で発生した問題のため調査も困難、証人喚問も打切ると語ったとされている[23]。なお、紅露本人は、このような発言はしていないとでも言いたげな言動を後に行っている。
  7. ^ シベリア抑留者の間ではやがて民主運動が始まり、その一環として、この非難・糾弾を行い自己批判を迫る集会が、収容者間で人民裁判の名で頻繁に行われた。しかし、モンゴルでは民主運動はついに起らず、池田は日本への帰還のためモンゴルを出てナホトカで初めてこの人民裁判を受けることになった[28]
  8. ^ 与党の民主自由党はシベリア抑留者の帰還を進めるためにはソ連にも配慮しなければならないのに対し、野党の日本民主党の方が寧ろ政権妨害策としてソ連下での抑留者間の民主運動問題を取上げたとする見方もある。 しかし、小池新によれば、『画報現代史・戦後の世界と日本第6集』に「民主自由党は池田を擁護した」とあったとし、そこから小池は、民主自由党もソ連の抑留と強制労働を批判したと考えている[33]。ここでは、小池の見解に従った。
  9. ^ 国会証言のため証人らが東京に来た際、一部議員らは池田を出迎え、正式の手続きを経ることなく池田のみを議員会館に宿泊させている。そのため、関係者らからは委員会の中立性を疑わせるとの声も上がっている[36]
  10. ^ 参院証言では、池田は、モンゴルではいわゆる「民主運動」はなく、それでも旧軍隊の支配構造が残っていたことに反発が出て乱れ出したために、自身がモンゴル側の依頼で隊長に就任したとし[37]、証人の一人はそれを旧軍隊の力構造が新しい状態の下で出て来たことかと委員の一人(共産党)に問われて同意している[7]
  11. ^ 「暁に祈る事件」(ことによれば「人民裁判問題」についても)に関する参院の動きに対する、当時の読売新聞の冷ややかな態度は1949年5月17日付けの「編集手帳」欄に表れている。
  12. ^ 週刊朝日1949年3月13日号では「吉村隊を裁け」とのタイトルで事件を扱った様々な著作を紹介するとともに、著作者により死者数が大きく異なっていることに疑問を呈している。
  1. ^ 「明け方、力尽きて細い最後の声をあげる」極寒の夜、木にくくりつけて…日本の民族性も語られた「鬼畜リンチ事件」”. 文春オンライン. 株式会社文藝春秋. 2023年1月8日閲覧。
  2. ^ a b c 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第16号 昭和24年4月13日”. 国会図書館. 2023年5月23日閲覧。
  3. ^ 「外蒙抑留所の怪事 同法虐殺の吉村隊長」『朝日新聞』、1949年3月15日、朝刊、2面。
  4. ^ 「本社記者、五島列島で吉村隊長を突止む」『朝日新聞』、1949年3月19日、朝刊、2面。
  5. ^ 「元隊員が近く告発」『朝日新聞』、1949年3月19日。
  6. ^ 「"暁に祈った"人々 体験者は語る」『朝日新聞』、1949年3月25日。
  7. ^ a b 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第17号 昭和24年4月14日”. 国会会議録検索システム. 国会図書館. 2023年5月20日閲覧。
  8. ^ 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第17号 昭和24年4月14日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム”. 国会図書館. 2023年5月23日閲覧。
  9. ^ 「最後まで意見対立」『毎日新聞』、1949年4月15日。
  10. ^ 『新篇 私の昭和史Ⅰ 暗い夜の記憶』學藝書林、1974年4月5日、62-63頁。 
  11. ^ 「"暴行は明白" 二年間に入院者数百名」『朝日新聞』、1949年4月14日、東京版、朝刊、2面。
  12. ^ 「〇〇詩の引揚促進」『朝日新聞』、1949年4月25日、東京版、朝刊、2面。
  13. ^ 「減食処罰は命令 吉村隊事件 菊池氏は暴行死 第二回の証人喚問」『読売新聞』、1949年5月7日、東京版、朝刊、2面。
  14. ^ 「証人が縊死 吉村隊事件の"偽証"を苦にして」『読売新聞』、1949年5月12日、東京版、朝刊、3面。
  15. ^ 「元軍曹自殺」『朝日新聞』、1949年5月12日、東京版、朝刊、2面。
  16. ^ 「元軍曹自殺」『朝日新聞』、1949年5月12日、東京版、朝刊、2面。
  17. ^ 「元軍曹自殺」『朝日新聞』、1949年5月12日、東京版、朝刊、2面。
  18. ^ 「自殺〇〇証人抗議文」『読売新聞』、1949年5月13日、東京版、朝刊、2面。
  19. ^ 「〇〇証人が縊死 吉村隊事件の"偽証"を苦にして」『読売新聞』、1949年5月12日、東京版、朝刊、3面。
  20. ^ 「死亡診断27人」『朝日新聞』、1949年3月20日。
  21. ^ a b 佐藤 悠『凍土の悲劇 モンゴル吉村隊事件』朝日新聞社、1991年12月1日、17-18,33-34,142-144,179頁。 
  22. ^ 原田春男『暁に祈るまじ 私刑に泣いた吉村隊事件の真相』潮出版社、1972年1月1日。 
  23. ^ 「吉村隊長の処罰は困難」『毎日新聞』、1949年4月16日。
  24. ^ 「"可能な限りやる"」『朝日新聞』、1949年3月24日、朝刊、2面。
  25. ^ 「判決は懲役五年」『朝日新聞』、1950年7月15日、朝刊、2面。
  26. ^ a b c 読売新聞1980年3月26日23頁
  27. ^ 「法律は彼をどう裁くか」『朝日新聞』、1949年3月20日、朝刊、3面。
  28. ^ 「私は朝日新聞社に殺された」? 極寒の捕虜収容所「鬼畜のリンチ事件」が残したもの”. 文春オンライン. 株式会社文藝春秋. 20223-1-8閲覧。
  29. ^ 「人民裁判は私がやった」『朝日新聞』、1949年3月19日、朝刊、2面。
  30. ^ 「証言始まる ナホトカ人民裁判」『朝日新聞』、1949年5月12日、朝刊、2面。
  31. ^ (6ページ目)「私は朝日新聞社に殺された」? 極寒の捕虜収容所「鬼畜のリンチ事件」が残したもの”. 文春オンライン. 文芸春秋社. 20223-2-5閲覧。
  32. ^ 「結論難産 吉村隊と人民裁判 両意見が正面衝突」『読売新聞』、1949年5月18日、東京版、朝刊、2面。
  33. ^ 小池 新. “「私は朝日新聞社に殺された」? 極寒の捕虜収容所「鬼畜のリンチ事件」が残したもの”. 文春オンライン. 文藝春秋社. 2023年5月19日閲覧。
  34. ^ 「理事会案採決 引揚委の「吉村隊」審理」『読売新聞』、1949年5月19日、朝刊、2面。
  35. ^ 「結論更に検討 参院引揚特別委員会」『読売新聞』、1949年5月10日、朝刊、2面。
  36. ^ 「国会記者席 吉村隊長に黒山の人」『朝日新聞』、1949年4月13日、東京版、朝刊、1面。
  37. ^ 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第16号 昭和24年4月13日”. 国会図書館. 2023年5月23日閲覧。
  38. ^ 「編集手帳」『読売新聞』、1949年5月17日、東京版、朝刊、1面。
  39. ^ 「元隊員に呼びかけ」『朝日新聞』、1949年3月24日、朝刊、2面。
  40. ^ 「殖田法務総裁答弁」『読売新聞』、1949年5月16日、朝刊、2面。
  41. ^ 「共産主義の犠牲になるな」『朝日新聞』、1949年3月20日、朝刊、3面。
  42. ^ 「吉村隊、その後」『朝日新聞』、1949年7月1日、声欄。
  43. ^ 読売新聞1980年12月25日夕刊10頁
  44. ^ (5ページ目)「私は朝日新聞社に殺された」? 極寒の捕虜収容所「鬼畜のリンチ事件」が残したもの”. 文春オンライン. 文藝春秋. 2023年1月30日閲覧。
  45. ^ 柳田邦男 他「「暁に祈る」事件 正義の名の下に」『文藝春秋』2005年11月号
  46. ^ 「外蒙抑留所の怪事 同胞虐殺の「吉村隊長」」『朝日新聞』、1949年3月15日、朝刊、2面。
  47. ^ 小池 新. “「私は朝日新聞社に殺された」? 極寒の捕虜収容所「鬼畜のリンチ事件」が残したもの”. 文春オンライン. 文藝春秋社. 2023年5月18日閲覧。
  48. ^ 「問題化した記録文学のウソ」『読売新聞』、1949年5月15日、朝刊、2面。
  49. ^ 週刊朝日: 19. (1949-05-01). 


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