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永井準一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/08 15:13 UTC 版)

永井 準一郎

永井 準一郎(ながい じゅんいちろう、1882年明治15年)7月7日[1] - 1955年昭和30年)2月21日[2])は、日本の内務警察官僚弁護士憲政会系官選大分県知事千葉市長

経歴

千葉県長狭郡北風原村(吉尾村長狭町を経て現鴨川市)出身[3]永井謙蔵の長男として生まれる[1]第二高等学校を卒業。1908年東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、樺太庁事務嘱託となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し鳥取県属となる[1][4]

以後、高知県警部、同警視・警務課長、同巡査教習所長、宮城県伊具郡長、同県栗原郡長、高知県警察部長、新潟県警察部長、徳島県内務部長などを歴任し、1924年7月、大阪府警察部長に就任[1]

1925年9月、大分県知事に就任。憲政会系であったが政党色をあまり出さない県政運営を行った。庭球が趣味で、部下にも庭球愛好家が集まり、熊谷一弥を招いて指導を受けたことなどから、大分県でテニスが盛んになったといわれる。1926年9月に休職となる[1]1928年9月27日に休職満期となり退官した[5]。その後、1930年4月から大連市助役となった[6]

1934年12月から1946年4月まで千葉市長を三期務めた。その後、公職追放となり[7]、弁護士を開業した[1]。追放解除後の1955年死去。

脚注

  1. ^ a b c d e f 『新編日本の歴代知事』1066頁。
  2. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』862頁。
  3. ^ 『大日本人物史』な2頁。
  4. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』197頁。
  5. ^ 『官報』第531号、昭和3年10月1日。
  6. ^ 『大衆人事録 第3版』ナ之部82頁。
  7. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛体制協議会構成員翼賛県協長東亜聯盟協県支部長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、390頁。NDLJP:1276156 

参考文献

  • 『大日本人物史 : 銀婚記念 1925年』大日本人物史編纂社、1925年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』 帝国秘密探偵社、1930年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。





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