氏姓制の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 13:43 UTC 版)
9世紀に、摂関政治により藤原朝臣が最も有力となった。また、桓武天皇より平朝臣、清和天皇などから源朝臣の氏姓(ウヂ・カバネ)が生まれたように、諸皇子に氏姓をあたえる臣籍降下が盛んに行われるようになった。これらのため、律令的氏姓制度は、人材登用制度としてはほとんど有効に機能しなくなった。 一方、律令的戸籍制度も次第に行われなくなり、10世紀には、地方豪族で実力を蓄えた者は、有力な貴族の家人となり、その氏姓を侵すようにさえなり、いわゆる冒名仮蔭(ぼうめいかいん)の現象が一般化した。そのため、天下の氏姓は、源・平・藤・橘か、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原などに集中されるようになった。これは家業の成立によって、特定の家柄が固定されるようになったためでもある。たとえば、越前の敦賀氏、熱田大宮司家らが藤原氏から養子を迎えて「藤原朝臣」を名乗ったり、それらの氏の女子をめとり母系によって「藤原朝臣」その他の氏姓を称した例もある。武士もまた、地頭として、本家、領家の氏姓を侵し、同じ氏姓を名乗る者が増えた。ここにおいて、同姓の間でも、さらに族名を分かつ必要にせまられ、貴族では家名、武士では名字が生ずるのである。
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