武藤重勝
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1939年撮影
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誕生 | 1904年![]() |
死没 | 1990年6月19日(満86歳没)![]() |
職業 | 詩人、司書 |
言語 | 日本語 |
国籍 | ![]() |
教育 | 図書館情報学 |
最終学歴 | 立教大学文学部哲学科 卒業 |
ジャンル | 詩、俳句 |
代表作 | 『日向』『星祭』 |
配偶者 | 武藤ミヅノ |
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武藤 重勝(むとう しげかつ、1904年2月4日[1] - 1990年6月19日)は、日本の詩人、図書館情報学者。
生涯
1904年(明治37年)、日本統治下の台湾に生まれる。幼少期を父の郷里である宮崎県児湯郡高鍋町で過ごし、東京府の旧制第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)を経て旧制宮崎中学校(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)へ移る。旧制宮崎中5年生の時には武者小路実篤が児湯郡木城町に開いていた「新しき村」を友人らと訪問し、実篤の薫陶を受けている[2]。
旧制宮崎中を卒業後、立教大学文学部哲学科[3]に進学。1930年(昭和5年)に卒業した[4]後、そのまま大学図書館の職員となる。1938年(昭和13年)、神戸市が募集していた『神戸市歌』(初代、1951年廃止)の歌詞募集において応募作が一等入選で採用された[5]。1945年(昭和20年)3月、立教大学図書館を退職(疎開のためとみられる)[6]。京都市立第三商業学校教諭を経て1948年(昭和23年)まで旧制高鍋中学校(現在の宮崎県立高鍋高等学校)教諭を務め、文芸誌『なみき』を発刊する[7]。
1949年(昭和24年)4月、立教大学に復帰し図書館司書に着任、副館長に至る。この間に私立大学図書館協会研究部理事、日本図書館協会評議員を歴任。定年退職後も1970年(昭和45年)まで司書課程の非常勤講師を務めた[2]。一方で日本詩人クラブ会員として『現代詩選』を中心に詩を発表し、編集委員を務めていた学校法人立教学院の機関誌『立教』にも詩やエッセイを多く残している。立教大学の非常勤講師を退いた後は高鍋へ帰郷し、詩や俳句の創作を中心に活動した[7]。
1990年(平成2年)6月19日、脳梗塞のため死去。満86歳没。日本聖公会の信徒であったため、遺言により聖公会教区葬の格式に則って葬儀が執り行われた[8]。
著作
いずれも没後に遺稿を整理して刊行された。
参考文献
- 高鍋町史編さん委員会編『高鍋町史』(高鍋町、1987年) NCID BN03354457
- 寺﨑昌男「立教人物誌 武藤重勝 クリスチャン・詩人であり続けた図書館人」『立教学院史研究』第2号、2004年、178-181頁、doi:10.14992/00015374。
出典
- ^ キリスト教年鑑編集部 編『キリスト教年鑑 第28巻(1985年版)』キリスト新聞社、1985年、707頁。全国書誌番号: 85059769。
- ^ a b 寺﨑昌男 2004, p. 180
- ^ 立教大学哲学研究室 編『哲学科年報 昭和12年』立教大学哲学研究室、1937年、133頁。 NCID BA78739101。
- ^ 立教大学 編『立教大学一覧 昭和8年3月』立教大学、1933年3月19日、68頁。NDLJP:1280808/44。
- ^ 『官報』第3616号, 昭和14年1月26日, p.701. NDLJP:2960109/9
- ^ 寺﨑昌男 2004, p. 179
- ^ a b 高鍋町史, p1044
- ^ 寺﨑昌男 2004, p. 181
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