概要/ヌーヴェルヴァーグの定義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 18:03 UTC 版)
「ヌーヴェルヴァーグ」の記事における「概要/ヌーヴェルヴァーグの定義」の解説
広義には、撮影所(映画制作会社)における助監督等の下積み経験なしにデビューした若い監督たちによる、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法的な共通性を持った一連の作品を指す(単純に1950年代末から1960年代中盤に制作された若い作家の作品を指すこともあり、さらに広い範囲の定義もある)。 狭義には、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家たち(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品を指す。具体的には、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェなど。また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュなど、主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々のことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。 実際には「バザンの薫陶」なるものはいささか怪しい。バザンとロメールはたった2歳しか年齢が変わらず、それぞれ「オブジェクティフ49」、「シネクラブ・デュ・カルチェ・ラタン」というシネクラブを主宰していたのであり、1951年、『カイエ』創刊に向けて、ロメールは『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』を廃刊して合流したのである。また、ゴダールやリヴェットは本来『ガゼット』の執筆者であり、だれもがトリュフォーのようにバザンに私淑していたわけではない。『カメラ=万年筆』でバザンを魅了したアストリュックや、「呪われた映画祭」(フランスの存在したシネクラブ)をバザンやジャン・コクトーらとともに実現したジャック・ドニオル=ヴァルクローズとバザンの関係も、「バザンの薫陶」などというものではない。むしろ、ヌーヴェルヴァーグとは、バザンを含めたシネクラブ運動や「呪われた映画祭」の開催、ジャン・コクトーやロベール・ブレッソンとの交流、ジャン=ジョルジュ・オリオールの死による『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』の第二期廃刊から『カイエ』創刊への動きなどが、ダイナミックに生み出していったものだと言えよう。 また、ヌーヴェルヴァーグの作家として、ジャック・ロジエ、クロード・ベリ、ジャン=ダニエル・ポレ、フランソワ・レシャンバック、ロジェ・ヴァディム、ルイ・マルは忘れてはいけない。ジャン=ピエール・メルヴィルやクロード・ルルーシュ、ジャン=ピエール・モッキー、セルジュ・ブールギニョンを含めることもあるが、これは場合による。
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