楊貴妃と安史の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:09 UTC 版)
天下泰平の中で玄宗は徐々に政治に倦み始める。737年、寵妃武恵妃の死去により、玄宗は新たに寵愛に足る美女を求めた。740年、玄宗の息子寿王の妃となっていた楊玉環が見いだされ、玄宗の寵愛を得てたちまち皇后に次ぐ貴妃の地位に昇った。いわゆる楊貴妃である。玄宗は楊貴妃に溺れ、長恨歌に「これより皇帝は朝早くには朝廷に出てこないようになった」と歌われるごとく、政務への弛緩が目立つようになった。 政務に倦んだ玄宗に代わって政治を運営したのは、宰相李林甫である。李林甫は政治能力は高いが、その性格は悪辣な面があると評され、政敵を策略により次々と失脚させている。 李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃の親族楊国忠と塞外の胡出身の安禄山である。両者は権力の掌握に直結する玄宗夫妻の寵愛をめぐって激しく争った。755年に楊国忠が安禄山を玄宗に讒言したことが契機となり、自身の立場に危機感を覚えた安禄山は、ついに叛乱を起こした。安禄山の安氏と、その部下でその後安氏に代わって叛乱勢力を主導した史思明の史氏との2字を取って、この叛乱を安史の乱という。 安禄山の軍隊はたちまち長安に迫り、軍事力では長安を守れないと判断した玄宗は、蜀の地をめざして逃亡を余儀なくされた。亡命の途上、随従の兵士たちは自分たちをこんな境遇に追いこんだ怒りと恨みを安禄山の政敵である楊氏一族に向けた。楊国忠は兵士たちの手で殺害され、さらに玄宗は兵士たちの要求で楊貴妃に死を賜うほかはなかった(馬嵬駅の悲劇)。混乱のなか、756年、皇太子の李亨(粛宗)は玄宗の同意を得ないまま皇位継承を宣言し、玄宗はこれも事後承諾するしかなかった。譲位して太上皇となった玄宗は、戦乱が収まって長安に戻ったのちも半ば軟禁状態で余生を送り、762年に崩御した。
※この「楊貴妃と安史の乱」の解説は、「玄宗 (唐)」の解説の一部です。
「楊貴妃と安史の乱」を含む「玄宗 (唐)」の記事については、「玄宗 (唐)」の概要を参照ください。
- 楊貴妃と安史の乱のページへのリンク