楊茂搜の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 16:02 UTC 版)
296年12月、楊茂搜は斉万年の乱を避け、部落4千戸余りを率いて略陽から仇池へ移り、輔国将軍・右賢王を自称した。当時、戦乱を避けて関中から移住して来る者が大勢おり、楊茂搜は彼等を迎え入れて勢力を拡大した。後に愍帝により驃騎将軍・左賢王に任じられ、その地位を正式なものとした。 313年10月、長男の楊難敵は流民の楊武と結託して梁州を占拠すると、梁州刺史を自称した。314年1月、梁州出身の張咸らが反乱を起こすと、楊難敵は追放された。 317年12月、楊茂搜が没すると楊難敵が後を継ぎ、楊難敵は末弟の楊堅頭と共に仇池を分割統治した。
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