柳久保小麦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 04:52 UTC 版)
かねてより、柳窪は「柳久保小麦」発祥の地としてその名が知られている。柳久保小麦は、嘉永3年(1850年)あるいは嘉永4年(1851年)、柳窪の奥住又右衛門が旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたとする説 が流布されているが、一方、江戸から肥料にまぎれて運ばれてきた日本国外の長穂の種を又右衛門が発見して増殖したとする説もあり、その経緯は必ずしも明確になっていない。優良な小麦だったので評判になり、「又右衛門種」あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培された。この麦からは良質の粉ができ、「人が集まればうどん」の地域の習わしの中で、柳久保小麦の人気は高かった。柳久保小麦は、普通の小麦より穂丈が長く太いため、家屋の屋根材としても広く利用された。当時の民家は茅葺き屋根が多く、屋根材として不足する茅を補うために柳久保小麦の麦藁が使われた。 しかし、栽培にあたっては丈高のため倒れやすく、収穫量も他品種の約3分の1と少ないことから、1942年(昭和17年)に戦時中の食糧増産政策により作付けが中止された。その後、1985年(昭和60年)に又右衛門の子孫がつくば市の農林水産省農業生物資源研究所に保存されていた種を譲り受けて播種し、1988年(昭和63年)に46年ぶりに栽培を復活させた。 2010年代は、東久留米市内の10数軒の農家の協力により耕作され、うどん・ラーメン・かりんとう・饅頭・パン・クッキーなど関連商品が市内で販売されている。
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