東南説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 04:37 UTC 版)
臨屯郡が現在の江原道であり、真番郡はその先に続く慶尚道にあったとする説。この説では、真番の真がのちの辰韓、番がのちの弁韓と繋がる地名であるとみられる。郡治の霅県は今の慶尚北道浦項市になる。この説の強みの一つは霅県の「霅」の位置が類似発音の古地名に比定できることであり、それには二つの説がある。李丙燾著『韓国古代史・上』(p.320)によると韓国の地名は一字地名を反切法により二字に伸ばした例が多いという。漢字の推定音からいうと上古音・中古音・中世音いずれも新羅の只沓県の「只沓」が「霅」の反切になっている。只沓県はのちに鬐立県、さらに長鬐県と改名されたもので今の慶尚北道浦項市南区長鬐面に該当する。もう一つは、慶尚北道浦項市北区興海邑でここは新羅の初期には退火郡と呼ばれ「退」と「霅」では異なるが上古音や中古音では発音が似ているともいえる。大原利武は『満鮮に於ける漢代五郡二水考』(1933年、近沢書店)の中で霅県の位置を『茂陵書』記載の距離から比定、「霅」の読みを「そう」(さふ)としてこの興海邑の玉江の新城里としている。新城里の「新」と「霅」の韓国語読みが類似する上、元は薪城里だったと比定すると「薪」と「霅」の韓国語読みが一致するという。この場合、忠清道・全羅道の後の馬韓地域は含まれないことになるが、『三國志』では土俗的な印象で語られる馬韓に比して辰韓や弁韓は都市文明の影響が明瞭であり真番郡の故地であったことの傍証とされる。この説では、後の馬韓該当地域は漢朝に併合されなかったことになる。
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